今日も一つ、私のもとに届いた心に響いたお話をお伝えします
【母の強さ】
(いっそこの海に、この子と一緒に飛び込みたい!)
大阪から高知に向かう汽船の甲板で、暗い海を見つめながら、母親はそう思った。
脳裏には、数時間前に聞いた医師の言葉が、貼り付いていた。
「お気の毒ですが、お子さんの眼は癌に冒されています。それも両目とも。病名は網膜こう腫」
「今すぐに、両眼を摘出しなければお子さんの命が危ない。眼球を残すか、命を救うか、二つに一つです」
高知市内の眼科を片っ端から訪ね歩いた末、大阪の専門病院で告げられた、いわば最後の通牒(つうちょう)だった。
全身が凍りついた。
わが子の眼を抉り出すなんて。
想像するだけで心が乱れた。
ふらつく足取りで、高知の帰り船に乗った。
(飛び込もう!)
母の悲壮な決意を察知してか、背中におぶった赤ん坊も激しく泣き叫ぶ。
最後にもう一度と、背中の赤ん坊の顔をのぞき見た瞬間だった。
それまで火がついたように泣き叫んでいた赤ん坊がニコリと笑った。
それは、天使の笑顔であった。
母親は、ハッと我に帰った。
(こんなにも一所懸命に泣き、一所懸命に笑っているこの子の命を奪おうなんて。
私はなんと愚かなおそろしいことを考えていたのか。私がするべきことは、
今ここでこの笑顔を絶つことではなく、この子が大人になったとき、
もっと素敵な笑顔になれるよう、しっかり育てることだった)
母親は生と死の境界で踏み止った。
それは強い母になるんだと、自らに誓った一瞬でもあった。
3歳になった少年は、保育園に通いだした。
眼球は失ったが、園庭を自由自在に動くことが出来た。
周りの子供は、眼をつぶったまま動き回る彼を不思議に思った。
「ねえ、どうして眼をつぶったまま、動けるの?」
「ぼく、眼がないんだよ」
少年の言葉に、みんなは、ワーッと叫びながら、逃げてしまった。
翌日から、少年に対する陰湿ないじめが始まった。
「やーい、めくらぁ、めくらぁ」
はやしながら、滑り台の上から突き落とした。
石を投げつけた。
少年の体は生傷が絶えなかった。
あるとき、
「眼を見せて」
という子に、少年はまぶたを開いて見せた。
一瞬後、まぶたの奥に激痛が走った。
こじ開けたまぶたの中に、砂と土が詰め込まれていた。
少年はカッとして、飛びかかっていこうとした。
その瞬間だった。
少年の肩をグッとつかむ人がいた。
少年の母親だった。
母親は、いつも園庭の陰で、少年の様子を見守っていた。
わが子がどんなにいじめられても、からかわれても、
飛び出すことをしなかったのに、
少年が、とうとう執拗ないじめに耐えかねて、相手に立ち向かおうとしたとき、飛び出してきた。
そして、わが子を制したのだった。
母親は、少年をやさしく諭した。
「可哀相なのは、お前じゃないよ。
いじめられ、からかわれたお前より、
もっと可哀相なのは、自分より弱い立場の人間を
いじめたりからかったりしないと、
自分の心を満足させられない人。
そんな人のほうがずっと可哀相なのよ」
この母親の眼差しは深い。そして涼やかだ。
それは人間を見つめ、わが子の歩む道を照らす自愛の眼差しである。
少年は、この愛に育まれて真っ直ぐに成長した。
・・・・・・
全盲のシンガーソングライター・堀内佳さんの幼少期の話である。
彼は、鍼師として勤務しながら、全国でツアイーコンサートを行い、
大勢の人々に、生きる勇気を与え続けている。
堀内さんは言う。
「今にして思うけれど、あのとき、一番辛かったのは、自分ではなく、おふくろだったんです。
わが子がいじめられたり、からかわれたりするのを見ながら、
自分の人生を教えてくれたおふくろ、いのちの大切さを教えてくれたおふくろに
今ではすごく感謝しています」
とかく私達は、今自分がおかれた環境にとらわれ、一喜一憂してしまいがちだけれど、
それで絶望したり、諦めてしまっては、咲く花も咲かない。
親は子供の未来にこそ視線を据えたい。
未来を信じるその心が、
子供の無限の可能性をおしひらくのだ。
※「じっと見つめる -小さな愛の物語-」
新世書房より